英語学習

【大学院受験記1】トビタテ!留学JAPANとミシガン州立大学への交換留学

いぬ
いぬ
大学院受験記と銘打って、全5回に及ぶ壮大な自分語りが始まるワン。
あざらし
あざらし
もしそれでも読んでも良いという場合にのみ、このまま読み進んでくれればいいのじゃ

英語が1番の得意科目に

人と違う自分でありたい。

なぜか昔からそんなことを思っていました。

ただ子供の頃から大勢でわいわい過ごすのが好きではなく、友達と話すのは苦ではないけれど、一人で図書館で本を読んでいる方が楽しかったのを覚えています。

小中学生の頃の興味の対象は熱帯魚や昆虫で、スポーツに興じる周りの男の子たちとはまるで話題が合いませんでした。

今でこそ外交的に見えるらしいですが、根っからの人見知りかつ、考える時間が長いので返事を思いついた時には次の話題へ進んでいたということもしばしばで、余計友達と遊ぶのが面倒に感じていました。

 

英語との出会いは小学校6年生に遡ります。

経緯はよく知りませんが、母が先輩ママさん達からの助言を元に、その塾に申し込んでいました。

一般の家の少し大きめの部屋で15名くらいの生徒で中学英語を先取りしました。

それまでは5-6歳くらいの頃、公文に通っていたくらいでそのこともあまり覚えていなかったため、ほぼ初めての塾に通えることを毎回楽しみにしていました。

その塾ではNew Crownの教科書を使ってロールプレイをたくさん行い、英語のセンテンスを吸収していきました。

文法は必要最低限のルールを学び、あとは問題を解きながら身につけていくというやり方でした。

素晴らしい先生に恵まれ、中学3年生で塾を卒業になるタイミングまで一度も辞めようと思うことはありませんでした。

おかげで中学の英語は100点以外取ったことはほとんどなく、学校の授業が極めて簡単に感じました。

 

英語がうまく行っていたのが良かったのか、他の教科も勉強すればできるようになるだろうという謎の自信があり、数学以外は先生に恵まれ着実に習得していきました。

その後、地域で1番の高校に行きたいなと思い始め、数学も地域の塾で先生に習い始め、無事に高校入試を突破することができました。

 

小さな中学校だったのでちょっと勉強すれば1番にはなれるくらいでしたが、進学した高校(理数科)では80人の同級生がとても賢く、一気に真ん中あたりからのスタートになりました。

高校では弓道部に入り、部活が楽しすぎたのと、当初ギターに熱中していたこともあり、滑り出しの学習をおろそかにしました。宿題が多かったのでそれだけやれば精一杯という日々で、あまり大学受験のことなど考えることもなく高三を迎えました。

その頃は家庭の事情もあり、結局1校も大学を受験することなく、高校を卒業しました。

 

この先どうなるかということは全くわかりませんでしたが、実家にいたらダメになることだけは明らかだったので、6年間会っていなかった母に連絡をとり、1年間名古屋で面倒を見てもらうように頼みました。

そこから実質的な浪人生活が始まりました。心身の不調から激ヤセし、フワフワとした気持ちのまま1年が過ぎました。

結局、後期試験(2次試験なし)で受かっていた琉球大学へ進学することに決め、修学旅行以来初めての沖縄生活が始まりました。

アメリカへの扉を開いてくれた友人

沖縄に行くとその気候の穏やかさからなのか、心身の不調がなくなり、数年ぶりにハツラツとした毎日を送ることができました。

友人にも恵まれ、バイトも楽しかったので、「The 大学生」という時期を満喫しました。

2015年の7月ごろ(当時2年生)、友人のゴロウが「タイの大学に交換留学したいから一緒に勉強しないか」と誘ってくれました。

暇だったし、留学も面白そうだったので二つ返事で引き受け、ゴロウの行きたい大学の要求点と同じTOEFL80点を求める欧米の大学を探しました。

記憶が正しければ、アメリカのミシガン州立大学(MSU)とイギリスのシェフィールド大学が候補に上がり、そのうちシェフィールドには行きたい人がいるという話を聞いたのでミシガン州立大学へ行くことにしました。

当時は専門科目の履修が始まったばかりでまだよく分かっていませんでしたが、学年主任(後の指導教員)に相談したところ、その先生はポスドク時代にMSUで働いていた経験があり、そのコネクションを生かしてサポートしてくれると言ってもらえました。

 

そこから奨学金を取る必要があると分かり、国際課でもらったパンフレットの中からトビタテ!留学JAPANというプログラムに応募することに決めました。

これは文部科学省と民間企業が半分ずつ予算を出し合って、多様な留学を支援するというプログラムでした。

当時は留学支援といえば高い英語のスコアやGPAが要求されるものがほとんどの中、このプログラムはポテンシャル採用のような状態でしたので、これしかないと思い夏のコワーキングスペースで1週間で応募書類を完成させました。

いま読み返してみるとガタガタの申請書で、「よく通してもらったな」と苦笑いするしかありません。

それでもこの段階で初めて、予算獲得の申請書にはどういう書き方が求められるのかを学びました。

 

その後、初めてTOEFLを受験するも、スコアは60点。

目標の80点には遠く及びませんでした。

一方のゴロウは45点くらいでしたが、ゴロウが前向きに日々の勉強に取り組んでいる様子を見て、自ずと学習を継続することができました。

ゴロウは平日もクリスマスも正月も大学の図書館で閉館まで勉強していました。

琉球大学よりも沖縄国際大学という私大の方が図書館の営業時間が長かったので、二人で私大の図書館に行ってわき目もふらず勉強しました。

結果的にはゴロウの方が先に目標点を取得し、私は2016年の3月ごろに、6回目のTOEFLで77点を取得することができました。

3点足りていませんでしたが、国際課のスタッフが交渉をしてくださったおかげでお情け合格をいただくことができました。

ちょうど同時期にトビタテ!留学JAPANの4期生にも認定され、留学の準備が整いました。

この留学準備体験は、大学受験を頑張れなかった自分を超えることができた瞬間のように思います。

大きな達成感とともに、ついえかけていた自己肯定感を取り戻すきっかけになりました。


福岡へTOEFLを受験しに行った時
ゴロウは予約したホテルを間違えた。
贖罪として夜に馬刺しをおごってもらった。


英語の道へ導いてくれたゴロウ
今はパパラッチ(ちゃんとした新聞社の記者)として活躍している

トビタテ!留学JAPANの醍醐味の1つが他の学生との交流です。

事前研修・留学中の集まり・事後研修と様々な交流の機会があるので、分野の垣根を超えたコミュニティとして機能しています。

500人以上の方にあってお話を聞かせていただき、それまでの人見知りがだいぶ改善されたのもこの頃です。

今はあまりトビタテの集まりには顔を出さなくなってしまいましたが、ここで出会った何人かの友人とは今でも強い信頼関係があります。

例えば2016年末にニューヨークで家を借りて、タイムズスクエアでカウントダウンをするという試みをしました。

いい場所を取るために朝から並んで激さむでしたし、丸一日トイレに行けないという苦行を強いられました。

人生で1度だけ経験できれば良いことナンバー1に入る経験です。

また、2017年の2月頃にはペルー・ボリビアを訪れ、マチュピチュ・ナスカの地上絵・ウユニ塩湖などを見ました。英語が通じない場所を初めて経験し、世界の広さを実感しました。この経験から随分と図々しく生きられるようになった気がします。


マチュピチュにて
めちゃくちゃ遠かった

アメリカでの10ヵ月間が海外大学院を目指すきっかけ

MSUでの生活は半分は授業の履修、もう半分はラボでのプロジェクトでした。

大学の授業は質の高さに驚くばかりでした。

教科書は分厚いし、週に3日も同じ授業の講義があるし、評価は公平だし、本来はこれが当たり前なのに、日本ではそんな授業は受けられませんでした。

専門性が広がっていくのが嬉しくて、とにかく楽しく学ぶことができました。ラボの指導教員が植物生理学を教えていたこともあり、この頃からPlant Scienceに関心を寄せるようになりました。

研究室では毒キノコが作り出す毒の成分を取り出すと言う仕事を教えてもらいました。

化学の分野でいう単離・精製という作業です。

大した成果は得られませんでしたが、学生だけでなく研究員の方々もいて、すごくアクティブな雰囲気で研究を進めている様子を目の当たりにして、「研究ってかっこいい!」と漠然と感じていました。

生活面では冬が厳しすぎました。

ミシガンでは-20℃くらいまで気温が下がるので、あらゆる活動が億劫になります。また、日の出が8時過ぎにも関わらず、授業が8時から始まるという謎の設定のため、毎朝まだ日の出ていない雪道をかき分けて教室のある建物へ向かいました。

留学に行ったからと行って現地の友達が簡単にできることもなく、他の留学生と遊ぶことがあったくらいです。

ダメな留学生の例に漏れず、YouTubeで日本のお笑い番組に癒しを求めていました。

紆余曲折ありましたが、アメリカへの交換留学が直接のきっかけとなり、「大学院では研究環境の良いところに行こう、できることなら海外大学院へ行こう」という気持ちが芽生えました。

人と違う道を追い求めているうちに、留学という手段を見つけ、知らず知らずのうちに自分の限界を押し広げることができました。